| おしえて№640 投稿者 ベリーさん | |||||
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イエス・キリストが人を羊に喩えて話したことに由来すると思われます。 聖書には『迷う者・群れる者=羊(=人)』,『導く者=救世主・神』と言う構図の記述がたくさん出てきます。 では,なぜイエスは羊を喩えに使ったのか?イエスが活躍した当時の中近東では羊が最も一般的な家畜であり,教えを受ける大衆にとって理解し易い事例だったからだと思われます。 羊は他の家畜に比べ弱く臆病で狼等に襲われると四散し、又牧夫の引導がないと斜面を上へ上へと進み風上に移動する習性を持ち、時に独力で幕営地に帰れないことがあります。 これらの点から、一般に羊は牧夫による放牧管理の度合いが高く、人への依存度の高い家畜と見なされています。 尚、羊群の行動統制は追随性を利用して、牧夫に付き従い群れを先導するものを群れに入れ制御することによってよりよく達成されます。その方法には地域差があるようですが、行動が敏捷で牧夫の介入に敏感に反応する山羊を数頭群れに入れたり、雄や雌の特定個体を幼子段階から穀物などで人付けして牧夫の後につき従うように仕立てたり、特定雄を去勢して牧夫の命令語を理解するように仕立てたりするそうです。 以上の特質を有する羊は、労働源には適さないものの乳・肉・羊皮・羊毛等としての利用価値は高く、ラテン語で財貨を意味するpecuniaという語は羊群pecusという語から派生した程に、昔から欧州・中近東世界等では非常に身近な家畜でした。(平凡社『世界大百科事典』) 古代近東の宗教的祭儀には小羊(子羊とも書きます)が生け贄の動物として用いられ、初期キリスト教はこれをキリストの犠牲的役割を表すシンボルとして、聖書では羊が例に取り上げられることが少なくありません。旧約聖書でヤハウェや王が「牧者」に、ユダヤの民が「羊の群れ」に例えられ(エレミヤ書・エゼキエル書・詩篇等)、新約聖書ではキリストは「私は善き羊飼いである」(ヨハネ福音書)と語った。ここから、キリスト教会では信徒が「神の羊の群れ」に、聖職者が「牧者」に、又キリストが「大牧者」(ペテロの第1の手紙)に例えられます。新約聖書の中では「ルカ福音書15章」に「見失った羊(迷える羊)」の節が有り、また同様に「マタイ福音書18章」にも「迷える子羊」の節が有ります。(羊・小羊・子羊等の違いは主に翻訳上の問題だと思います。小羊・子羊の表現も書籍によってバラバラなようです。) 以上「迷える小羊」のフレーズは臆病で脆弱な羊の生態とも相まって、正に新約聖書から引用されて広まった言葉だと思います。ミサに限らず、西洋で「迷える(小)羊」のような「羊」という言葉を聞いたら注意してみましょう。それはキリスト教にまつわる表現なのかも知れません。「羊の皮を被った狼」とか或いは羊以外にも「目から鱗」「豚に真珠」「狭き門」など良く知られた言葉が実は聖書からなんてことも・・・ 参考URL:函館中央教会 http://www.host.or.jp/user/church/000716.htm 麻布セント・メアリー教会 http://www.azabu-mary.com/top/top_bn3.html フジテレビ「STRAY SHEEP」 http://www.fujitv.co.jp/jp/goods/sheep/profile/saito/saito.html 聖書に登場するひつじ http://www.sco.e-catv.ne.jp/kandu/nendo4.htm 教会のシンボル http://www.pauline.or.jp/tokusyu/church/church02.html 「迷える子羊」というのは聖書からの引用です。 聖書が生まれたのはカナンの地、岩砂漠の荒野であったわけで、エジプトから脱出したイスラエル人は家畜を連れて長年の流浪の末にたどり着いたのです。そうしたシチュエーションでは、迷える子羊というのが非常に自然な比喩だったのではないでしょうか? 羊を飼っている人などほとんどいない日本では、直感的ではありませんけれども。 アナタハカミヲシンジテマスカ?そうです。 神の教えを知る心優しき動物は、子豚でも小虎でもライオンの子どもでもなく、何の抵抗もなく無惨にオオカミ(=悪の象徴)に食いちぎられる子羊でなければいけなかったのです。 夏目漱石の小説「三四郎」も最後につぶやいています。「ストレイシープ、ストレイシープ…」そう、迷える子羊(ストレイシープ)物語は、西欧キリスト教の歴史でもあったのです。オオカミに食いちぎられても、天の神の教えを守って、反撃することなく(右の頬を叩かれたら左の頬をさしだしなさい、という博愛主義)、従容として死んでいく子羊、その子羊も、ふとその純情が故に迷って道半ばで、佇んでいるときがあるのです。そのときこそ、夜空を仰ぐべきです。そう、天の星が、歩むべき信仰の道を照らしているではありませんか。 では、東洋の三四郎は、何に迷ったのでしょうか? そうです、いち早くロンドンに行き、西欧文明のすごさを経験した彼は、三四郎の口をかりて、つぶやいたのです。 「そんなに慌てて西欧文明を受け入れたら、日本の将来はどうなるのだろう?もう子羊のように迷っているじゃないか」 ですから、夏目は、「こころ」で先生を明治とともに殉教をさせたのです。彼の死後、大正は、民主化に失敗し、戦争へ戦争へ、と流れを向けていきました。 今の日本も「ストレイシープ」なのでしょうか、それとも…… 私はキリスト教徒ではないので詳しくは分らないのですが、「聖書」からの出典であろうことは容易に想像がつきます。参考URLによりますと、 「他の動物には、牙や爪が鋭いとか、俊敏な足を持っているとか、攻撃性か身を守る習性があります。しかし、羊は足が短く、牙も鋭い爪もなく、人の保護なくして生きていけない弱い動物です。群になって守りあう動物でもあります。人は羊のように、主の愛と神様の御言葉の導きによらなければ真の人として生きられない弱いものなのです。」とあります。つまり人間の本質的な弱さを羊の例えている訳です。 参考URL:「Topics教会日記バックナンバー2001年2月」 http://www.azabu-mary.com/top/top_bn3.html 不確かですが。 たしかキリスト教で言うところの神の祝福を唯一受けていないのが羊なんですよ。 だから、そこから来てるんじゃないかと思います。 イエス・キリストが降誕したとき、真っ先に駆けつけてお祝いしたのが羊飼いたち。迷える子羊とは迷う民(羊飼い)のことで、それを導く救世主がキリストなのです。 大辞林によりますと、「小羊」は、 『弱く頼りないもの、犠牲とされるもののたとえに使う。「迷える—」「あわれな—」』と書かれていました。 小羊は、弱いもの、犠牲者の代表のように使われているんですね。確かに大自然では、ライオンに襲われて・・・。確かに食物連鎖の犠牲になっていますよね。 聖書の中で「力の弱いもの」のたとえで羊が出て来ています。 悩みのあるもの=>力がない=>小さな羊 となるんですね、たぶん。 迷える子羊ではなく「毎夜、植えるドイツ人」が正式な言い方です。 3回繰り返してみるとわかります。 日本全国に伝わるうち、いつのまにか子羊に変化してしまったのです。 ”ドイツ人は神のおしえに従い農繁期になると野菜の苗を毎晩植える”ということわざです。 ・・・・ これ、おもしろですよ。ホントに3回繰り返した人いませんよね。
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| 正答者の方々です。本当にありがとうございました。 | |
| iammyさん・乱気流さん・浜ちゃん・そくらちゃん・matsumotoさん・凪 ようかさん・のんきさん・Tsuneさん・ぶひぃーさん・のんきさん★ |